Thursday, October 15, 2009

9.雪の国チベットにおける仏教の始まり

二千年以上前、チベット人達は山間の小さな部落や村落で暮らしていました。その後、コンポという場所に町ができました。ここは「猿の鼻」という名でも知られており、チベットの南部にあたります。これがチベットで最初にできた町です。そしてチベットにはまだ王様がいませんでした。村長などがいただけです。

ある天気の良い日、山の上にとても変わった様子の人物が現れたという噂が、町に流れました。人々は、この変わった人物に会ってみようと山に集まりました。実はこの人物は、インドからやってきた王子だったのです。彼は、「リブ・タム・ビー」という名で知られる貴族の出身でした。彼らは特別な一族で、神々の種族と言われていました。

この王子は、祖国から追放されていたのです。各地をさまよい歩くうちに、たまたまその場所にたどり着いたのでした。王子はチベット語が喋れず、人々もまた王子の言葉を喋れません。しかしそれでも、人々は彼がたいへん特別な人物であることがわかりました。彼は王子でしたので、それらの人々よりも優れた風貌をしていました。人々は王子に、どこから来たのかと尋ねました。彼はチベット語が話せなかったので、ただ空を指さしました。そこで人々は彼が神々の世界から下りてきたのだと思いました。彼らは王子を神と見なして礼拝しました。そして彼らは玉座を作って王子を乗せ、肩の上に担いで「猿の鼻」に運びました。そして彼を王に任命しました。

その時からチベットでは君主制が確立しました。「ラ・トトリ・ニャンツェン」は26代目の王です。「ラ」とは神々という意味、「トトリ・ニャンツェン」が彼の名前です。彼は傑出した人物で、「ユンブ・ラガン」と呼ばれる、チベットで最初の宮殿を建てました。それは大変しっかりとした造りで、今でもチベットに建っています。

この宮殿は独特のデザインで建てられています。これには塔があり、その塔の上に王が座って考え事をするための場所がありました。ある晴れた日、王が手を組んで座っていると、自らの内に強烈な感覚が湧き起こってくるのを感じました。王は臣民のために何か有意義なことをしたいという、強い思いに駆られました。王は、良き王であるだけでは十分ではないことに気付きましたが、それがどういうことかは解りませんでした。その強烈な感覚を覚える内、突然、空から音と光が現れ、あらゆる種類の信じがたいほど素晴らしい、ちょっと魔法のようなことが、王の周囲で起こりました。王はじっと座って、不安げに待っていました。すると突然、輝く雲が現れ、王のいる方にゆっくり降りてきました。そして王は、すっかりその輝く雲に覆われてしまいました。王には全く何も見えませんでした。すると手の上に何か重い物が置かれるのを感じました。しばらくすると雲は消え、王は自分の宮殿の塔の上に座ったままでした。手の上には箱がのっていました。それは独特の様子をしていました。王はそれを開けました。そこにひとつの像と仏舎利塔、そして「オン・マニ・ペメ・フム」という真言の書かれた冊子を見ると、王はとても喜びました。そして声が聞こえてきました。その声は「将来、5代後の王が、これら箱の中の物すべての持つ意味を理解するだろう。」と王に言いました。王はその箱と中身を、最高の信心を持って大切にしまっておきました。これがチベット人と観音様-すべての仏や菩薩の親愛と慈悲の化身-との最初の縁でした。この出来事は世界への、特にチベットへの観音様の顕現、祝福を示しています。

こうしてこの伝統は、吉兆の箱とその中の吉兆の品を受け取るという形で、ラ・トトリ・ニャンツェン王から始まりました。しかしその後、この王から5代後のソンツェン・ガンポという王が、チベットの歴史における王家の第1代目の王となりました。

チベット人はソンツェン・ガンポ王を、観音菩薩の化身とみなしています。その頃には、ソンツェン・ガンポ王は自分の曾曾祖父が観音菩薩の化身から受け取った物の価値について理解していました。この継承物について完全に調べ、理解するため、王は深遠な仏陀の教えをインドからチベットへ伝えるために尽力しました。彼は偉大な王で、たった13歳のときにチベットの王となりました。彼は大変若いのにもかかわらず、チベット全土を制圧しました。それ以前は、チベットには沢山の小国がありました、その殆どは山賊で、野蛮人のように暮らしていました。そして彼は、それらの小国を制圧して連合王国のようなものに纏めました。

その後ソンツェン・ガンポ王は、中国やネパール、インドなど全ての隣国から、多くの深遠な教えを招来しました。そしてこの王が中国とネパールの両方の王女を后として迎えると、チベットにおける仏教が大いに栄えることになりました。この二人の后達は、それぞれたいへん貴重なものをチベットに持ってきたのです。それはネパールからの仏像一体と、中国からの仏像が一体です。これら二体の仏像は、今日に至るまでチベット仏教にとって最も貴重な物の一つです。仏像の他にも、王妃たちは仏陀の教えの経典類を沢山持ってきました。中国から来た文成公主が招来した仏像は、今でもチベット人に篤く崇拝されています。それはラサの大昭寺に安置されています。

ソンツェン・ガンポ王は仏陀の教えから、臣民の苦の原因について学びました。王は、彼らは五毒を持つことによって苦しむということが分かりました。五毒とは、欲、怒り、無明、嫉妬、そして慢心です。これらの毒をより多く持つ者ほど、より多く苦しむでしょう。五毒が少ない者ほど、苦しみは少ないでしょう。幸福をもたらすのは、健康でも、富でも名声でもありません。幸福とは、私たちの本質を理解する洞察力、または知恵からもたらされるのです。こうして王は、すべての苦しみの元は五毒-「吝嗇」(けちであること)をあわせて六番目の毒とする-または私たちの心の汚れであると理解しました。


王はまた、「オン・マニ・ペメ・フム」の意味についても学びました。この真言は六毒の障碍(しょうがい)を鎮めるためのものです。それには6つの種字があり、それらの種字は慈愛と慈悲を基礎とする、6つの特性を育む助けとなるものです。王は観音菩薩の真言である「オン・マニ・ペメ・フム」をチベット中に広めました。

世界の屋根、チベットから、普遍的平和を築くために、ソンツェン・ガンポ王は仏陀の教えと古代中国の偉大な知識である風水を組み合わせ、ブータンから成都までに亘って、108の仏舎利塔をを建て、また、12の主要な寺院と13番目の特別な寺院を建てました。これらの仏舎利塔と寺院は、チベットからブータン、そして成都に至るまでの範囲の中、それぞれ特別な位置に建てられました。それらの位置を上空から見ると、人間が仰向けに寝ているような形をしています。それらの寺院と仏舎利塔は、この人間の形の上で、それぞれ特定の場所に建てられています。王は特に中心となる寺院を、ラサのミルキー・レイクという湖の上に建てました。それは白い湖で、とても珍しいものでしたが、すっかり土で覆われてしまいました。王はこの中央寺院を、仏法をチベットに伝えたすべての師たちに対する感謝の意を込めて、また、チベットに素晴らしい仏像をもたらした、二人の后に対する感謝の意も込めて、建造しました。この寺院は「ラサ・トゥル・ナム」として知られています。それは今でも見ることができます。こうして、それは普遍的平和-特に人間にとっての-を築く、始めの象徴的活動として、世界の屋根の上に確立されました。

その時から、チベット国内では仏法が強固に確立されました。その後6世代経った後、ティソン・デツェンがチベットの王になりました。彼もまた偉大な王でした。この王はグル・パドマサンババをチベットに招きました。グル・パドマサンババはインドの大成就者で、チベット人には第二の仏陀として知られています。(チベット仏教の修行者の間では、グル・リンポチェとして崇められています。)グル・リンポチェの呪術的な力に助けられ、ティソン・デツェン王は最初の仏教僧院である「サムイェ・リン」を完成することができました。それは今日まで残っています。サムイェ・リンは聖地として巡礼されています。

ティソン・デツェン王の支援により、仏教のすべての教義、小乗、大乗、金剛乗の教えが純粋に、インドからチベットもたらされました。これらの教えは次第に8つの法脈に分かれていきました。それらは:1)ニンマ、2)カダム、3)ラムデイ、4)マルパカギュ、5)シャンパカギュ、6)チチェー、7)ドルジェスムジン、8)アンダップ です。現在、5つの法脈が残っています:1)ニンマはニンマ派、2)カダムは、古カダム派と、新カダム派に分かれました。新カダムはゲルク派として知られています。3)ラムデイはサキャ派、4)マルパ・カギュ派は、カルマカギュが所属する派です。5番目の法脈はシャンパ・カギュ派です。この法脈の継承者は、カル・リンポチェです。これらがチベット佛教(金剛乗)の現存する5つの法脈です。その他3つの法脈は、独立した法脈とはならずに、これら5つの中に吸収されていきました。このようにして、チベット仏教は今の時代に適応し、存続しています。これがチベット仏教の歴史の概略です。

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