誰もが良い人生を求めています。しかし、私たちのうちのどれだけが、それを実際に手にしているでしょう?現在すでに60才を過ぎた人々は、自分に正直に尋ねてみましょう。自分が生きたいように生きることができたかどうか。
私たちの多くは、自分が望んだようには生きてこなかったでしょう。それは何故でしょうか?それには勿論、多くの理由があります。私は何年もかけてその答えを見出しました。多くの人々は、若いころもう少し運に恵まれていれば、彼らが望むような人生を生きることができたはずだと信じているのです。
「運」というものを、多くの人々が信じています。人々は、運が人生で大きな役割を演じていると信じています。勤勉であったり、正直であったり、立派な学歴を持ったりすること等の他に、望みを叶えるためには、さらに「運」というものが必要だと信じているのです。彼らは色々な例を引き合いに出します。自分の言い分を主張するのに、「マイ・フェア・レディ」に出てくる歌、「運が向いてきたぞ」を引用した人もいます!
あなたはどう思いますか?「運」なんて本当にあるのでしょうか?あなたは「運」を信じますか?
私はここで、旅行中に発見した幾つかの事柄、チベットやネパール、中国、インド、ヒマラヤ山脈地方、タイ、カンボジア、ミャンマー、インドネシア、シンガポール、マレーシア、ドイツ、そして日本などを旅行して気づいた事を、お伝えしたいと思います。私は、世界の異なる地域から来た、異なる社会的地位を持つ人々と出会ってきました。そのうち殆どの人が、「運がよい」と言うとき、その意味するところについて、本人も曖昧であるらしいということに、私は気づいたのです。一部の人々は、「運」とはただ偶然によるものだと信じています。日本人は「運」という言葉を、より明らかな表現で説明できると思います。
英語で「Luck」と呼ぶものを、日本語では「運」と言いますが、よく、それに「気」をつけて、「運気」ということがあります。「気」とはエネルギーのことです。ある日本人から聞いた説明を挙げてみます。「運気が上がると、幸運や幸福を引き寄せることができ、運気が下がると、悪運を引き寄せる。」これは中国人が、ポジティブなエネルギーの要素である「福」が強いとき、暮らし向きは良く、全てが順調で、うまくいくと信じているのと似ています。殆どの日本人もそのように考えているようです。
仏教徒は、私たちは過去の数え切れない前世のうちに、善業と悪業の両方の種子を撒いている、と信じています。もしも善業の種子が芽を出し、今生において豊かに実れば、良い人生を送ることができるのは疑いようもありません。しかし、もしも今生において私たちに「福」が足りなければ、いくつか障害が生じるでしょう。
しかし、私たちはそれらの障害を取り除くことができます。それは祈りと功徳を積むことによって行われます。お釈迦様は私たちの「福」(功徳)を集めるための多くの方法を説いて下さいました。タイは仏教国です。彼らはお釈迦様の教えを真剣に受けとめ、いつでも、どこでも、できる限り「ターンブン」(功徳を積む)をしに行きます。
2月21日はタイ人にとって重要な日です。この日は万仏節として知られています。それは陰暦の1月15日で、満月の日です。この日はまた、タイ人と同じく中国人にとってもおめでたい日です。伝統的には、それは中国正月を祝う最後の日にあたるのです。
万仏節は功徳を積む日です。その日の夜、タイの仏教徒はろうそくを持って寺や舎利塔(卒塔婆)の周りを回ります。(ここに、バンコクのプラ・スリ・マハタット寺院で撮った写真を掲載します。プラ・スリ・マハタット寺院は私が住む場所から徒歩で20分程の所にあります。)万仏節はタイの公休日です。タイ国中の何百万と言う仏教徒が、夕方には「ウィアン・ティアン」(ろうそくを持って回る)を行うために、寺に詣でます。これはタイ仏教において重要な行事の一つです。
万仏節の夜、プラ・スリ・マハタット寺院では、7時頃にろうそくと線香と蓮の花を持った僧侶達が静かに歩きだし、その後に信徒たちが続きます。彼らは瞑想的に歩き、本堂と卒塔婆の周りを3回ずつ巡ります。そして僧侶達はそれぞれ、様々な目的のテント内に設けられた席に座ります。信徒たちは次々に彼らを礼拝し、布施を行います。(僧侶とは功徳の種を撒くための、良い土壌であると考えられています。僧侶達は、信徒達が功徳を積むための素晴らしい機会を与えているのです。)このとき、何人かの僧侶たちは説法を行います。寺の境内では、仏教の歴史や文化についての展示も行われます。
今生において功徳を積むと、自分の過去世において撒いた功徳の種を、発芽させる助けになることがあります。今生におけるどの善行が、過去世において撒いた功徳の種を発芽させる助けになるのか、私たちには分かりません。ですから、様々な種類の善行を、できるだけ多く行いましょう。今生における善行はもうこれで十分、などという事はあり得ません。善行を行うためにお金を使ったり、努力をしたりするのは、優良株を買うのに似ています。将来必ず利益を上げます。
功徳は正しい動機(即ち、慈悲や親愛の情)を伴う布施行を通して、積むことができます。このようにして積んだ功徳は確実に、過去に撒かれた功徳の種を、さらに発芽させるための助けとなります。豊富な功徳の種が芽を出すとき、私たちの望みが叶うのです。良い人生、素晴らしい人生が、確実に手に入ります。これを「運がいい」のだ、と考える人もいるでしょう。
結論として、「運」は偶然または出鱈目に起こることではありません。「運」が開けるかどうかは、それ自体の原因と条件(因と縁)次第です。私たちは功徳を積むことで、これらの原因と条件(因縁)の種を撒き、運を開くことができるのです。
写真(上から):
1)万仏節にプラ・スリ・マハタット寺院の卒塔婆を巡る仏教徒達。
2)プラ・スリ・マハタット寺院で奉仕活動をする士官学校の生徒達。
3)寺院の外に暫定的に設けられたテント内の仏像に花を供える信者達。
4)卒塔婆の周りに下げられた提灯。
5)功徳を積む信者達。