僧伽の集まりは、得度した僧侶や尼僧、菩薩、ヨギまたはヨギニ等から成ります。仏陀は、僧伽に所属する者達について、人々が功徳の種を撒くための優れた土壌であると説いています。これについて、仏教国においては大変よく理解され、実行されていますが、仏教徒のいる非仏教国においてはそうでもありません。
マレーシアやシンガポール、インドネシア、日本、韓国、ヨーロッパ諸国、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドその他の国では、仏教を信奉する人々がいますが、これらの仏教徒達の内の多くは、僧伽に属する者に対する供養の意味が分かっていません。これらの非仏教国の人々の中には、僧侶や尼僧を、社会の挑戦を受けることができず、職がなく、経済的援助が必要な
敗北者と見做しています。彼らは社会の落伍者であり、精神的な問題を抱えている、等…。私はそのような、僧侶や尼僧に対して間違った考えを持っている人々に遭遇してきました。
私は一度、マレーシアの仏教会のメンバーに仏教の説法をするために招かれたことがあります。そして会長の家に昼食に招かれた時のことです。会長(女性)は、自分の夫に私のことを紹介し、夫は退職する前は学校の校長だったと私に言いました。彼女は夫に、私も僧侶になる前は学校の教師であったことを告げ、彼女が昼食の支度をする間、私をもてなすようにと頼みました。私たちは互いに挨拶してソファに座り、お茶を頂きながら会話を始めました。会話は順調に運ばれ、彼は私の旅行について尋ねました。私は自分の旅行体験について熱意を持って語りました。すると彼は突然こう尋ねたのです。「あなたは精神的な問題を抱えていたために、僧侶になったのですか?」私は即座に答えました。「あなたはこの家に来る僧侶たちに、いつもその質問をするのですか?」そして私は彼の顔を覗き込み、真面目な口調で聞きました。「その人達がどう答えたのか教えてくれませんか?」
彼は私の質問に衝撃を受け、ぽかんとした顔で立ち上がると、うなだれながら立ち去りました。マレーシアでのこの体験は、多くの体験の内の1つに過ぎません。さまざまな国を旅行している間に、もっと驚くべき質問を浴びせられることがあります。
それからというもの、私は、非仏教国における仏教徒たちの多くが、功徳(タイ語でターンブンと言う)の意味をとり違えていることに気付きました。彼らは、僧侶に布施をしたり食事を供養する際、それを僧侶への慈善事業であると考えているのです。別の場面で、私がチベットの高僧(リンポチェと呼ぶ)と一緒にいた時のことです。ある仏教の信者が、封筒に入れた札束をリンポチェに渡しながらこう言いました。「リンポチェ、私からの援助です。」するとリンポチェは「結構です。ご自分で取っておきなさい。あなたの援助はいりません。」と、丁重に断りました。その仏教徒はそのお金を引っこめ、かばんの中に仕舞いました。
功徳を積む伝統は、仏陀自身から始められました。それは2千5百年以上前に、ブッダがインドのブッダガヤの菩提樹の下で至高の悟りを得た後に始まりました。ブッダガヤで暫く過ごした後、仏陀はベナレスのサルナートへ行き、そこで最初の5人の弟子に、四聖諦の法を説かれました。サルナートで弟子達と暫く過ごした後、仏陀は弟子達と共に、王である父を訪問することに決めました。
父の宮廷で数ヶ月滞在した後、仏陀は弟子の僧侶達に、人々が布施行により功徳を積む機会を得られるよう、托鉢をしに街へ出なければならないと言いました。仏陀と僧侶達が托鉢から帰ってくると、王は息子が自分に恥をかかせたと思い、大変怒っていました。そこで仏陀は父親に丹念に説明しました:公の場で托鉢を行うのは仏陀の一族の伝統である。過去仏から受け継いだ伝統を守るのは自分の務めである。この伝統は、仏陀や僧侶達に布施を行うことで功徳を積む機会を人々に与えるためのものである。それは普通の乞食のように物乞いをする行為とは違う。それは人々に対する親愛と慈悲の行為である。それは彼らを利益(りやく)する行為である。
この時から、僧伽が公からお布施を受け取る伝統が始まり、今日まで受け継がれているのです。
タイ王国の現国王、プミポン・アドゥンヤデート国王陛下は、現在80代のご高齢です。国王陛下は、現存する君主では最長の在位期間を持つ王であり、また、近代社会において評価され、国民に最も敬愛されている王でもあります。陛下は若い頃に一度、短期間だけ(数ヶ月間)僧侶として出家したことがあります。陛下は他の僧侶達と全く同じように、公共の場で布施を受けに行きました。このように、国王陛下もまた同じく仏陀の例に倣ったのです。
仏陀は、たとえ一日でも僧として出家したなら、その人は多くの功徳を積むであろう、と仰いました。僧侶になることで積む功徳は、七代遡った全ての祖先に利益を与えます。ですからタイ国では、家族の誰かが無くなると、最近親者の誰か-普通は故人の息子か男の孫-がすぐに出家して、1日か3日、または一週間かそれ以上の間僧侶になります。そうして、その期間僧になることで積んだ功徳を、故人に回向します。そのような善行は、故人がより良い来世を迎える助けになると、信じられています。
殆どのタイ人は、短期間でもいいから一生に一度は僧侶になることを望んでいます。多くのタイ人は、退職した後に出家し、その後の人生を僧侶として過ごします。私は、そのような僧侶達の中で高い学歴を持つ人々に何人も出会いました。中には、外資系企業で高い役職に就いていたが、子供の大学卒業を待って辞職し、出家してその後の生涯を僧侶として過ごしている人もいます。
この記事を書くことによって積んだ功徳を、全ての衆生の成道のために回向します。そして特に、プミポン・アドゥンヤデート国王陛下の健康のために回向します。陛下のご長寿を祈ります。
この記事を書くことによって積んだ功徳を、全ての衆生の成道のために回向します。そして特に、プミポン・アドゥンヤデート国王陛下の健康のために回向します。陛下のご長寿を祈ります。
写真1:タイで僧侶になる際の儀式。得度するまでは白い衣を着る。
写真2:托鉢をするチベット僧。インドのブッダガヤで。
写真3:タイの寺院で。僧侶に供養する儀式。
写真4:タイの国王が出家した時の写真。早朝に通りで托鉢をする様子。
写真5:僧侶となったタイ国王が布施を受ける様子。