Thursday, October 15, 2009

9.雪の国チベットにおける仏教の始まり

二千年以上前、チベット人達は山間の小さな部落や村落で暮らしていました。その後、コンポという場所に町ができました。ここは「猿の鼻」という名でも知られており、チベットの南部にあたります。これがチベットで最初にできた町です。そしてチベットにはまだ王様がいませんでした。村長などがいただけです。

ある天気の良い日、山の上にとても変わった様子の人物が現れたという噂が、町に流れました。人々は、この変わった人物に会ってみようと山に集まりました。実はこの人物は、インドからやってきた王子だったのです。彼は、「リブ・タム・ビー」という名で知られる貴族の出身でした。彼らは特別な一族で、神々の種族と言われていました。

この王子は、祖国から追放されていたのです。各地をさまよい歩くうちに、たまたまその場所にたどり着いたのでした。王子はチベット語が喋れず、人々もまた王子の言葉を喋れません。しかしそれでも、人々は彼がたいへん特別な人物であることがわかりました。彼は王子でしたので、それらの人々よりも優れた風貌をしていました。人々は王子に、どこから来たのかと尋ねました。彼はチベット語が話せなかったので、ただ空を指さしました。そこで人々は彼が神々の世界から下りてきたのだと思いました。彼らは王子を神と見なして礼拝しました。そして彼らは玉座を作って王子を乗せ、肩の上に担いで「猿の鼻」に運びました。そして彼を王に任命しました。

その時からチベットでは君主制が確立しました。「ラ・トトリ・ニャンツェン」は26代目の王です。「ラ」とは神々という意味、「トトリ・ニャンツェン」が彼の名前です。彼は傑出した人物で、「ユンブ・ラガン」と呼ばれる、チベットで最初の宮殿を建てました。それは大変しっかりとした造りで、今でもチベットに建っています。

この宮殿は独特のデザインで建てられています。これには塔があり、その塔の上に王が座って考え事をするための場所がありました。ある晴れた日、王が手を組んで座っていると、自らの内に強烈な感覚が湧き起こってくるのを感じました。王は臣民のために何か有意義なことをしたいという、強い思いに駆られました。王は、良き王であるだけでは十分ではないことに気付きましたが、それがどういうことかは解りませんでした。その強烈な感覚を覚える内、突然、空から音と光が現れ、あらゆる種類の信じがたいほど素晴らしい、ちょっと魔法のようなことが、王の周囲で起こりました。王はじっと座って、不安げに待っていました。すると突然、輝く雲が現れ、王のいる方にゆっくり降りてきました。そして王は、すっかりその輝く雲に覆われてしまいました。王には全く何も見えませんでした。すると手の上に何か重い物が置かれるのを感じました。しばらくすると雲は消え、王は自分の宮殿の塔の上に座ったままでした。手の上には箱がのっていました。それは独特の様子をしていました。王はそれを開けました。そこにひとつの像と仏舎利塔、そして「オン・マニ・ペメ・フム」という真言の書かれた冊子を見ると、王はとても喜びました。そして声が聞こえてきました。その声は「将来、5代後の王が、これら箱の中の物すべての持つ意味を理解するだろう。」と王に言いました。王はその箱と中身を、最高の信心を持って大切にしまっておきました。これがチベット人と観音様-すべての仏や菩薩の親愛と慈悲の化身-との最初の縁でした。この出来事は世界への、特にチベットへの観音様の顕現、祝福を示しています。

こうしてこの伝統は、吉兆の箱とその中の吉兆の品を受け取るという形で、ラ・トトリ・ニャンツェン王から始まりました。しかしその後、この王から5代後のソンツェン・ガンポという王が、チベットの歴史における王家の第1代目の王となりました。

チベット人はソンツェン・ガンポ王を、観音菩薩の化身とみなしています。その頃には、ソンツェン・ガンポ王は自分の曾曾祖父が観音菩薩の化身から受け取った物の価値について理解していました。この継承物について完全に調べ、理解するため、王は深遠な仏陀の教えをインドからチベットへ伝えるために尽力しました。彼は偉大な王で、たった13歳のときにチベットの王となりました。彼は大変若いのにもかかわらず、チベット全土を制圧しました。それ以前は、チベットには沢山の小国がありました、その殆どは山賊で、野蛮人のように暮らしていました。そして彼は、それらの小国を制圧して連合王国のようなものに纏めました。

その後ソンツェン・ガンポ王は、中国やネパール、インドなど全ての隣国から、多くの深遠な教えを招来しました。そしてこの王が中国とネパールの両方の王女を后として迎えると、チベットにおける仏教が大いに栄えることになりました。この二人の后達は、それぞれたいへん貴重なものをチベットに持ってきたのです。それはネパールからの仏像一体と、中国からの仏像が一体です。これら二体の仏像は、今日に至るまでチベット仏教にとって最も貴重な物の一つです。仏像の他にも、王妃たちは仏陀の教えの経典類を沢山持ってきました。中国から来た文成公主が招来した仏像は、今でもチベット人に篤く崇拝されています。それはラサの大昭寺に安置されています。

ソンツェン・ガンポ王は仏陀の教えから、臣民の苦の原因について学びました。王は、彼らは五毒を持つことによって苦しむということが分かりました。五毒とは、欲、怒り、無明、嫉妬、そして慢心です。これらの毒をより多く持つ者ほど、より多く苦しむでしょう。五毒が少ない者ほど、苦しみは少ないでしょう。幸福をもたらすのは、健康でも、富でも名声でもありません。幸福とは、私たちの本質を理解する洞察力、または知恵からもたらされるのです。こうして王は、すべての苦しみの元は五毒-「吝嗇」(けちであること)をあわせて六番目の毒とする-または私たちの心の汚れであると理解しました。


王はまた、「オン・マニ・ペメ・フム」の意味についても学びました。この真言は六毒の障碍(しょうがい)を鎮めるためのものです。それには6つの種字があり、それらの種字は慈愛と慈悲を基礎とする、6つの特性を育む助けとなるものです。王は観音菩薩の真言である「オン・マニ・ペメ・フム」をチベット中に広めました。

世界の屋根、チベットから、普遍的平和を築くために、ソンツェン・ガンポ王は仏陀の教えと古代中国の偉大な知識である風水を組み合わせ、ブータンから成都までに亘って、108の仏舎利塔をを建て、また、12の主要な寺院と13番目の特別な寺院を建てました。これらの仏舎利塔と寺院は、チベットからブータン、そして成都に至るまでの範囲の中、それぞれ特別な位置に建てられました。それらの位置を上空から見ると、人間が仰向けに寝ているような形をしています。それらの寺院と仏舎利塔は、この人間の形の上で、それぞれ特定の場所に建てられています。王は特に中心となる寺院を、ラサのミルキー・レイクという湖の上に建てました。それは白い湖で、とても珍しいものでしたが、すっかり土で覆われてしまいました。王はこの中央寺院を、仏法をチベットに伝えたすべての師たちに対する感謝の意を込めて、また、チベットに素晴らしい仏像をもたらした、二人の后に対する感謝の意も込めて、建造しました。この寺院は「ラサ・トゥル・ナム」として知られています。それは今でも見ることができます。こうして、それは普遍的平和-特に人間にとっての-を築く、始めの象徴的活動として、世界の屋根の上に確立されました。

その時から、チベット国内では仏法が強固に確立されました。その後6世代経った後、ティソン・デツェンがチベットの王になりました。彼もまた偉大な王でした。この王はグル・パドマサンババをチベットに招きました。グル・パドマサンババはインドの大成就者で、チベット人には第二の仏陀として知られています。(チベット仏教の修行者の間では、グル・リンポチェとして崇められています。)グル・リンポチェの呪術的な力に助けられ、ティソン・デツェン王は最初の仏教僧院である「サムイェ・リン」を完成することができました。それは今日まで残っています。サムイェ・リンは聖地として巡礼されています。

ティソン・デツェン王の支援により、仏教のすべての教義、小乗、大乗、金剛乗の教えが純粋に、インドからチベットもたらされました。これらの教えは次第に8つの法脈に分かれていきました。それらは:1)ニンマ、2)カダム、3)ラムデイ、4)マルパカギュ、5)シャンパカギュ、6)チチェー、7)ドルジェスムジン、8)アンダップ です。現在、5つの法脈が残っています:1)ニンマはニンマ派、2)カダムは、古カダム派と、新カダム派に分かれました。新カダムはゲルク派として知られています。3)ラムデイはサキャ派、4)マルパ・カギュ派は、カルマカギュが所属する派です。5番目の法脈はシャンパ・カギュ派です。この法脈の継承者は、カル・リンポチェです。これらがチベット佛教(金剛乗)の現存する5つの法脈です。その他3つの法脈は、独立した法脈とはならずに、これら5つの中に吸収されていきました。このようにして、チベット仏教は今の時代に適応し、存続しています。これがチベット仏教の歴史の概略です。

Sunday, May 17, 2009

8. カルマパ

ここで、このブログの6番目の記事でも言及した、カルマパについて紹介します。カルマパは、私たちが教えを受けているチベット仏教カルマカギュ派の教主です。

チベット人はグルリンポチェを、釈迦牟尼佛の後の第二の仏陀と見做しています。そして彼らはカルマパを、グルリンポチェの化身であると信じています。チベット人はまた、カルマパを観音菩薩の化身の一人でもあると見做しています。カルマパの出現は、釈迦牟尼佛によってSamadhiraja 経典の中で次のように予言されています:

わたしが入滅してから二千年後、
教えは赤い顔の者の土地へ広まるだろう。
彼らは観音菩薩の弟子;
カルマパとして知られるSimhanada菩薩が現れる。
サマディを習熟し、彼は衆生を治めるだろう。
そして、見ること、聞くこと、思い出すこと、および触れることによって、彼らを祝福する。
Lankavatara 経典のもう一つの予言では次のように予言されています:

僧衣と黒い冠を着けて、
彼は絶えず衆生を利益する。
一千佛の教えが消え去るまで。

カルマパは、比類ない人物です。彼は、チベット仏教におけるトゥルク(転生ラマ)制度の創始者です。第一世カルマパ、ドゥスム・キェンパは、自分の生まれ変わりについて予言した手紙を残しました。第二世カルマパ、カルマパクシはその手紙の記述に基づいて発見されました。カルマパクシは中国の明の皇帝に招かれて、中国へ行きました。宮殿に滞在した最初の21日間の間、カルマパクシは21の奇跡を起こしました。そして中国の皇帝は、カルマパクシの弟子になりました。その時から、その後の世代のカルマパもみな続けて明の皇帝のグルになっています。

第十六世カルマパは偉大な菩薩でした。彼は口伝の教えを、主に自分の根本グルである第十一世タイ・シトゥリンポチェから受けました。第十六世カルマパは布教活動を広く行いました。ヨーロッパや北アメリカでは、ただカルマパを一目見ただけで仏教徒になった人々が大勢います。このようにして、ヨーロッパや北アメリカではチベット仏教が栄えていきました。多くの仏教センターが世界中で、きのこが生えるようにどんどん出来ていったのです。第十六世カルマパはたいへん多くの人々に影響を与えました。私の人生も、第十六世カルマパのもとで帰依をしてから、ずっと良くなりました。

第十六世カルマパは、多くの素晴らしい奇跡をのこしながら、合衆国で亡くなりました。その入滅の数年まえに、第十六世カルマパは、自分の最も親しい弟子である第十二世タイ・シトゥリンポチェに、手紙を渡しました。第十二世タイ・シトゥリンポチェは、後に、現在の第十七世カルマパの根本グルとなっています。その手紙には、カルマパの生まれ変わりについて、両親の名前、生まれる年、出生地、また、生まれる時に起こるしるしなどの詳細が書かれていました。こうして、第十七世カルマパは、難なく見つけることができたのです。

第十七世カルマパ、ウギェン・ティンレイ・ドルジェは、1985年6月にチベットのカム地方の遊牧民の家族の間に生まれました。彼が生まれるとき、近所の人々はどこからともなく響いてくるほら貝の音を聞きました。それは約2時間にわたって、そこいらじゅうに響き渡りました。 この出来事は、上で言及した第十六世カルマパの手紙に予言されていたのです。不思議な音と共に生まれたこの遊牧民の赤ちゃんは、アポ・ガガと名付けられました。彼が6歳になった時、手紙の予言に従って第十七世カルマパを探していた捜索隊が、彼のところにやって来ました。

第十七世カルマパは、1992年9月27日に、中国共産党中央委員会の認証書とともに、チベットのツルプ寺で即位しました。中国共産党政府が転生ラマを認めたのはこれが初めてでした。カルマパについてより詳しく知りたい人は、このリンクへどうぞ:http://www.kagyuoffice.org/

Wednesday, May 13, 2009

7. 慈悲を育む - 功徳を積むためのひとつの方法 

「福」を呼ぶ(功徳を積む)ためのひとつの方法は、慈悲を持ちながら身体、言葉、心によって、善い行いをすることです。慈悲によって行われた行為は、「福」を呼び、利己的な動機で行われた行為は、「福」を失う原因となります。したがって、もし私たちの行いが、人々を幸せにしよう、人々の苦を除こうという利他的な動機から来たものならば、それは「福」を呼ぶことになります。自己中心的な動機でなしに、そのような利他的な動機を自然に持つためには、私たち自身の中に、深い優しさと慈悲がなければなりません。優しさと慈悲を育むには、巧みな方法が必要です。

瞑想によって、優しさと慈悲を育むための方法がいくつかあります。


優しさと慈悲を育む瞑想

チベット仏教では、慈悲心を育てるための瞑想法が二つあります。ここでそのうちの一つを紹介しましょう。この方法は、今生の母親に対する慈悲心を基礎にしています。自分の母親の偉大な優しさとその苦しみについて考え、母に対する慈悲の心を生じさせます。そしてその慈悲心を、他の衆生に対しても広げるのです。

仏陀は、輪廻転生は始まりも終わりもないと説きました。全ての衆生は数え切れないほど輪廻転生を繰り返しているのです。したがって、すべての衆生の其々は、過去生のどこかで自分の母親だったことがあるはずです。ですから、私たちは全ての衆生を自分の母であると考えてみるのです。そして、今生の母への慈悲を用いて、母である衆生に対する慈悲心を育むのです。


瞑想法

最初に、仏法僧に3回帰依し、四無量心*を発します。

そして、自分の母親を目の前に観想します。
自分はまだ胎児で、彼女のおなかの中にいると想像します。

妊娠中の母の苦しみと、おなかの中の自分を母がいたわってくれた事について考えます:
母の体は重くて心地が悪く、さまざまな痛みを感じる。  
おなかの中のあなたを守るために、転んだり何かにぶつかったりしないよう、ゆっくり歩いたり動き回ったりする。

あなたを出産するときは大変な痛みに耐えなければならない。
あなたが生まれたあとは、日夜あなたの世話をする。
あなたを腕に抱いて、風呂に入れ、乳をやる、等…。
あなたが病気になると、一晩中あなたの面倒を見る。

あなたのお母さんは、あなたを大切に育て、危険から守り、いろいろなことを教える。お母さんは、人生の多くの時間をあなたの世話をすることに費やした。

そして今、あなたは幸運にも仏法を聞くことができ、それはあなたを輪廻の苦しみから解放することができる。しかし、あなたのお母さんは、いまだに輪廻の苦しみの中にいる。お母さんは亡くなったら、宿業の風に吹かれ、どこに生まれ変わるかも定かではない。

このように考えたあと、母に対する慈悲を感じたら、母のために次のように祈ります;
「お母さんが、いつも幸せで穏やかでいますように。」

全ての衆生はいつかどこかであなたの母親だったのですから、他の人々に対しても、同じように祈ります。あなたに近い者から赤の他人まで、また、あなたの敵に対してさえも。そしてすべてのほかの生き物まで含めます。

例えば;
「お父さんが、いつも幸せで穏やかでいますように。」
「お兄さん/お姉さん/弟/妹が、いつも幸せで穏やかでいますように。」
「親戚の人々が、いつも幸せで穏やかでいますように。」
「私の友達が、いつも幸せで穏やかでいますように。」
「私の敵が、いつも幸せで穏やかでいますように。」
「この町の人々が、いつも幸せで穏やかでいますように。」
「この国の全ての生き物が、いつも幸せで穏やかでいますように。」
「世界中の生き物が、いつも幸せで穏やかでいますように。」
「この宇宙のすべての衆生が、いつも幸せで穏やかでいますように。」

そして、すべての衆生に対する博愛的な慈悲の心を持った状態をしばらく保ちます。その後、次のように心に思うことで、功徳をすべての衆生の解脱のために回向します:「この功徳を全ての衆生の成仏のために回向します。」このように、真摯な気持ちで回向します。

*四無量心:(Wikipediaによる解説)

Saturday, March 7, 2009

6. ヨギまたはヨギニとなる - ンガッパ・ラマ

チベット仏教には、前述したサンガのような功徳の土壌として、他にヨギとヨギニがいます。仏教徒のヨギとヨギニ(チベット語で「ンガッパ」として知られています。)は、主にヒマラヤ山脈地方及びチベットに見られます。(最近はヨーロッパやアメリカでも見つけることができるでしょう。)その主な理由としては、チベットに於ける殆どの仏教の宗派は、ンガッパ・ラマ達によって築かれたという事実があります。それはインドのマハーシッダ(大成就者)達でした。これらのンガッパ・ラマの殆どには家族がいます。ンガッパ・ラマには、僧侶や尼僧の様に、守らなくてはならない厳しい戒律があります。このようにして、彼らは自らの外に表れる行動と内なる動機に気を付けるよう、常により注意深くなります。多くのンガッパ・ラマは高い悟りに到達します。彼らは、我々が功徳の種を撒くための優れた土壌なのです。

この世に現れた最も偉大なヨギは、ミラレパです。ミラレパはチベット人で、一生涯の内に完全な悟りを開きました。その伝記は時代を超えて多くの仏教徒に霊感を与えてきました。多くの人々が、特にヨーロッパやアメリカで、ヨギ・ミラレパの伝記を読んだ後に仏教徒になりました。彼らはミラレパにインスピレーションを受けました。私もミラレパにインスピレーションを与えられました。

チベットの仏教は、あるンガッパ・ラマによって築かれて栄えました。そのラマの名はパドマ・サンバヴァといい、「グルリンポチェ」(尊いグル)として知られています。グルリンポチェはチベットにおける仏教の創始者です。(チベット仏教の創始者はダライ・ラマだと誤解している日本人に沢山会いましたが)グルリンポチェはインドのマハーシッダ(高度に成就した修行者)で、チベットのティソン・デツェン王に招かれて、8世紀頃に仏教をインドからチベットへ伝えました。グルリンポチェの神秘的な力を借りて、この王が建てた最初の仏教寺院であるサムイェ寺は、チベットで現在も荘厳に聳え立っています。サムイェ寺は、チベットにおいて最も聖なる地の一つと考えられています。

ティソン・デツェン王はその後、グルリンポチェの弟子になりました。グルリンポチェの一番弟子はダキニ・イェシェ・ツォギャルです。彼女はグルリンポチェの配偶者となり、チベットにおける、女性として最初の系譜継承者となりました。ダキニ・イェシェ・ツォギャルはグルリンポチェによる埋蔵経に、部分的に関与しています。これらの埋蔵経は、ンガッパ・ラマであるテルトン(埋蔵経発掘者)によって、時おり発見されます。これら埋蔵経により、チベット仏教は今日まで独特の存在となっています。グルリンポチェはニンマ派を創始しました。これはチベット仏教において最も古い系譜です。トゥルク(リンポチェとして知られる転生ラマ)を含む、ニンマ派の修行者の多くは、グルリンポチェに倣って配偶者を持っています。

グルリンポチェは、ンガッパ・ラマとして、全てのチベット人やチベット仏教行者に大変崇拝されています。彼らはグルリンポチェを第二の仏陀と見做しています。仏教史の中の84人のマハーシッダもまた、ンガッパ・ラマです。その内の4人は女性のンガッパ、或いはヨギニです。彼らは、因習にとらわれない密教を修行しました。マハーシッダとは、マハー(偉大な)ボディサットヴァ(菩薩)であり、涅槃に至ることができるにもかかわらず、その慈悲心から他者を利益するために、六道輪廻の世界に戻って来る者のことです。これら84人のマハーシッダ達の家柄や出身は多様で、その中には、王や大臣、聖職者やヨギ、治療士、詩人、音楽家、地主、農民、娼婦などがいます。これらのマハーシッダ達は神通力(シッディ)を持っています。シッダとしての彼らがダルマの修行において最も重きを置くのは、最高位の精神訓練を通して得られる、神聖な修行の直接的経験です。

チベット仏教ニンマ派の他に、カギュ派およびサキャ派にもンガッパ・ラマが見られます。9世紀に生きたインドの聖者、ヨギ・ヴィルーパは、最も人気のあるマハーシッダの内の一人です。彼はチベット仏教サキャ派の創立にインスピレーションを与えました。現在のサキャ派の宗主、サキャ・テンジン法王には妻子があります。法王の子息はサキャ派の宗祖を継ぐことになります。このサキャ派の伝統では、宗祖の座は父から息子へと受け継がれます。

カルマパ法王(公式サイト:http://www.kagyuoffice.org/ )はカギュ派の宗主です。現在のカギュ派の宗主は、第十七世カルマパ法王、ウギェン・ティンレイ・ドルジェです。チベット仏教に特有のトゥルク制度(転生ラマ制度)は、第一世カルマパ、ドゥスム・キェンパによって創始されました。

カギュ派は、インドの聖人である大成就者ティローパによって創立されました。チベット人のンガッパ・ラマ、マルパはインドに赴き、マハーシッダ・ティローパの弟子であるマハーシッダ・ナローパからカギュ派仏教の教えを伝授され、チベットに伝えました。マルパはサンスクリットで書かれた教えをチベット語に翻訳しました。亡くなるとき、マルパは妻のダクメマと一緒に空に浮かび上がって消えました。ティローパもナローパも同じくンガッパ・ラマでした。

第十五世カルマパは僧侶でしたが、配偶者を娶ってンガッパ・ラマとなりました。多くのチベット人はこれを良く思いませんでした。しかし、十五世カルマパは亡くなる前に、丁度過去の全てのカルマパがやったように、自分の来世についての予言を書き残しました。その手紙はダキニ言語で書かれており、カルマパはそれを明確な指示のもとに側近に託しました。手紙はかなり後に第十一世タイ・シトゥ・リンポチェ猊下に手渡されました。その内容が翻訳されると、そこで十五世カルマパが予言した自分の転生者に関する記述は、その時点ですでに第十一世タイ・シトゥ・リンポチェ猊下が見つけて即位させていた第十六世カルマパと完全に一致しました。(タイ・シトゥ・リンポチェの系譜についてさらに詳しく知りたい人はこのリンクをクリック:http://www.palpung.org/english/taisitupa/brief_brief.htm)

ケンポ・ツトゥリム・リンポチェ師は至高の成就を得た師であり、第十七世カルマパの教師でもあります。このリンポチェは偉大なるンガッパ・ラマです。チベットにいた頃はヨギ・ミラレパのような生活を送っていました。中央~東チベット中を放浪し、洞窟に篭って隠棲修行を行っていました。(ケンポ・ツトゥリム・リンポチェ師についてさらに詳しく知りたい人は、こちらのリンクをクリック:www.ktgrinpoche.org/biography.html

ンガッパ・ラマとしてチベット仏教の修行をするのは、容易なことではありません。ンガッパとしてダルマの修行を成功させるためには、たいへん多くの功徳が必要です。導師として、途切れの無い系譜を持つ信頼できるラマを持つことの他に、俗世の放棄、慈悲心、菩提心、誠実な動機および、根本ラマに対する揺るぎない信心と敬信が求められます。我々は高度の精神的規律と決心、寛容、根気、忍耐そして勤勉さを持たなければなりません。資格ある導師なしに修行するのは危険です。私は、導師なしで、または資格のある導師なしで修行したために、正気を失った人々を多く見てきました。その中には、仏陀はブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いたが、導師を持たなかったなどと言う人もいました!従って、彼らもまた同じようにできるのだ、と言うわけです。こう言う人々は間違っています。彼らは全く無知なのです。仏陀はこのように言いました。「この恵まれたイオンの間に、千の仏陀が現れる。その全てがそれぞれ、仏陀となるまで導く師を持つ。」従って、我々が衆生を利益するために仏陀となるには、導いてくれる真のラマ(導師)が必要なのです。

Wednesday, February 18, 2009

5.僧侶または尼僧になる-僧伽(サンガ)の一員となる

 最初のブログに書いたように、功徳は私たちの生涯のそれぞれの瞬間ごとに、ポジティブな行動により得ることができ、ネガティブな行動により失ったり損なわれたりします。従って私たちは、自分の身体、言葉、心によって成される行動に、常に気を付けていなければなりません。功徳を積む際は、誠実な動機(見返りを期待しない)を持って行うことが必要です。それ故、功徳は得るのが困難であり、失うことは易しいのです。これはお金を扱う場合と似ています。私たちの殆どが、お金を稼いで貯めるのは難しいと感じますが、お金を使うことに関しては、誰でもうまくやってのけます。そんなわけで、クレジットカードを使う人々の抗し難い浪費癖のお陰で、クレジットカード会社は年々儲かっているわけです。

 僧伽の集まりは、得度した僧侶や尼僧、菩薩、ヨギまたはヨギニ等から成ります。仏陀は、僧伽に所属する者達について、人々が功徳の種を撒くための優れた土壌であると説いています。これについて、仏教国においては大変よく理解され、実行されていますが、仏教徒のいる非仏教国においてはそうでもありません。

 マレーシアやシンガポール、インドネシア、日本、韓国、ヨーロッパ諸国、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドその他の国では、仏教を信奉する人々がいますが、これらの仏教徒達の内の多くは、僧伽に属する者に対する供養の意味が分かっていません。これらの非仏教国の人々の中には、僧侶や尼僧を、社会の挑戦を受けることができず、職がなく、経済的援助が必要な
敗北者と見做しています。彼らは社会の落伍者であり、精神的な問題を抱えている、等…。私はそのような、僧侶や尼僧に対して間違った考えを持っている人々に遭遇してきました。

 私は一度、マレーシアの仏教会のメンバーに仏教の説法をするために招かれたことがあります。そして会長の家に昼食に招かれた時のことです。会長(女性)は、自分の夫に私のことを紹介し、夫は退職する前は学校の校長だったと私に言いました。彼女は夫に、私も僧侶になる前は学校の教師であったことを告げ、彼女が昼食の支度をする間、私をもてなすようにと頼みました。私たちは互いに挨拶してソファに座り、お茶を頂きながら会話を始めました。会話は順調に運ばれ、彼は私の旅行について尋ねました。私は自分の旅行体験について熱意を持って語りました。すると彼は突然こう尋ねたのです。「あなたは精神的な問題を抱えていたために、僧侶になったのですか?」私は即座に答えました。「あなたはこの家に来る僧侶たちに、いつもその質問をするのですか?」そして私は彼の顔を覗き込み、真面目な口調で聞きました。「その人達がどう答えたのか教えてくれませんか?」
彼は私の質問に衝撃を受け、ぽかんとした顔で立ち上がると、うなだれながら立ち去りました。マレーシアでのこの体験は、多くの体験の内の1つに過ぎません。さまざまな国を旅行している間に、もっと驚くべき質問を浴びせられることがあります。

 それからというもの、私は、非仏教国における仏教徒たちの多くが、功徳(タイ語でターンブンと言う)の意味をとり違えていることに気付きました。彼らは、僧侶に布施をしたり食事を供養する際、それを僧侶への慈善事業であると考えているのです。別の場面で、私がチベットの高僧(リンポチェと呼ぶ)と一緒にいた時のことです。ある仏教の信者が、封筒に入れた札束をリンポチェに渡しながらこう言いました。「リンポチェ、私からの援助です。」するとリンポチェは「結構です。ご自分で取っておきなさい。あなたの援助はいりません。」と、丁重に断りました。その仏教徒はそのお金を引っこめ、かばんの中に仕舞いました。

 功徳を積む伝統は、仏陀自身から始められました。それは2千5百年以上前に、ブッダがインドのブッダガヤの菩提樹の下で至高の悟りを得た後に始まりました。ブッダガヤで暫く過ごした後、仏陀はベナレスのサルナートへ行き、そこで最初の5人の弟子に、四聖諦の法を説かれました。サルナートで弟子達と暫く過ごした後、仏陀は弟子達と共に、王である父を訪問することに決めました。

 父の宮廷で数ヶ月滞在した後、仏陀は弟子の僧侶達に、人々が布施行により功徳を積む機会を得られるよう、托鉢をしに街へ出なければならないと言いました。仏陀と僧侶達が托鉢から帰ってくると、王は息子が自分に恥をかかせたと思い、大変怒っていました。そこで仏陀は父親に丹念に説明しました:公の場で托鉢を行うのは仏陀の一族の伝統である。過去仏から受け継いだ伝統を守るのは自分の務めである。この伝統は、仏陀や僧侶達に布施を行うことで功徳を積む機会を人々に与えるためのものである。それは普通の乞食のように物乞いをする行為とは違う。それは人々に対する親愛と慈悲の行為である。それは彼らを利益(りやく)する行為である。
この時から、僧伽が公からお布施を受け取る伝統が始まり、今日まで受け継がれているのです。

 タイ王国の現国王、プミポン・アドゥンヤデート国王陛下は、現在80代のご高齢です。国王陛下は、現存する君主では最長の在位期間を持つ王であり、また、近代社会において評価され、国民に最も敬愛されている王でもあります。陛下は若い頃に一度、短期間だけ(数ヶ月間)僧侶として出家したことがあります。陛下は他の僧侶達と全く同じように、公共の場で布施を受けに行きました。このように、国王陛下もまた同じく仏陀の例に倣ったのです。

 仏陀は、たとえ一日でも僧として出家したなら、その人は多くの功徳を積むであろう、と仰いました。僧侶になることで積む功徳は、七代遡った全ての祖先に利益を与えます。ですからタイ国では、家族の誰かが無くなると、最近親者の誰か-普通は故人の息子か男の孫-がすぐに出家して、1日か3日、または一週間かそれ以上の間僧侶になります。そうして、その期間僧になることで積んだ功徳を、故人に回向します。そのような善行は、故人がより良い来世を迎える助けになると、信じられています。
 殆どのタイ人は、短期間でもいいから一生に一度は僧侶になることを望んでいます。多くのタイ人は、退職した後に出家し、その後の人生を僧侶として過ごします。私は、そのような僧侶達の中で高い学歴を持つ人々に何人も出会いました。中には、外資系企業で高い役職に就いていたが、子供の大学卒業を待って辞職し、出家してその後の生涯を僧侶として過ごしている人もいます。

この記事を書くことによって積んだ功徳を、全ての衆生の成道のために回向します。そして特に、プミポン・アドゥンヤデート国王陛下の健康のために回向します。陛下のご長寿を祈ります。
        
写真1:タイで僧侶になる際の儀式。得度するまでは白い衣を着る。
写真2:托鉢をするチベット僧。インドのブッダガヤで。
写真3:タイの寺院で。僧侶に供養する儀式。
写真4:タイの国王が出家した時の写真。早朝に通りで托鉢をする様子。
写真5:僧侶となったタイ国王が布施を受ける様子。